たいせつなこと(3)

「仏教は『絶対自由主義』である」

 

 これは、私が高野山で教わった著名な先生の御教えです。最近では、葬式不要論などが話題になります。「お葬式もしない、ご先祖様や水子の精霊様のご供養もしない」そういう方がおられることも確かです。そのような方々に、私がとやかく申し上げることはありません。

 

 その方が何を考え、どのような行いをされても、その人の自由であります。

 

 仏教には「自業自得(じごうじとく)」という考えがあります。今では、悪いことばかりに使われてしまう言葉ですが、自分自身の善悪の行いによって、本人自身がその報いを受けることです。善い行いは善い結果、悪い行いは悪い結果を本人が受けます。誰のせいでもない、その人の責任なのです。

 

 しかし、それでは私たちに「救い」がありません。私たちは善人でありながら、同時に悪人でもあるからです。そこで「回向」(えこう)という大切な御教えが仏教に生まれます。自分の善い行いを、「回」(めぐ)らし、他の方々に「向」けて、これを「回向」として、一緒に仏様のような善き人間になろうと願うことです。

 

 前回の女性のクチコミには「二度と光正寺(漢字が間違っています)には行けない」とあります。

 

 それでいいんです。その方がそう思えばそうしたら良い、本人の問題です。そして弘正寺境内に掲げてある、禁止のペットを連れての参拝をされながら、自身の過ちを梵妻の全く問題の無い対応にすり替えての、この言葉です。

 

 まことに心残りは、弘正寺さいの河原に、万体地蔵尊様を建立されていることです。「二度と行けない」との思いは、当然、万体地蔵尊様への「回向」の大切な機会を本人が失っていることになります。ペットのことばかりで、縁のあるお地蔵様を忘れているのでしょう。

 

 「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」亡くなった子がさいの河原で、両親のために供養の石塔を積み、「回向」されているにもかかわらず、です。「自業自得」とは言え、寂しいことです。

 

 しかし、全てのさいの河原、万体地蔵尊のご供養は、弘正寺が勤めております。それは何も変わっていません。合掌

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